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ひとりと二人

更新日:2023年6月23日


20代は山ガールで、休日になるとテントやシュラフを担いで、

あちこちの山を登りました。

白山、立山、上高地、燕岳など北アルプス、大峰山系、比良山系、

熊野古道、北山、六甲山系などから屋久島縦走まで。

仕事や子育てなどでキャンプ以外は山登りからはすっかり遠ざかってしまいました。


少しづつですがまた山登りを再開しています。

体力に全く自信がないので、まずは500mクラスの何度も登った山から。

先月は二上山の雄岳雌岳、槇尾山へ。

小学生も軽々のぼる山なのに、結構きつかったです。

先週は高野山へ。

大雨の予報だったので、残念ながら山登りは諦め、宿坊に前泊し、

高野山をひたすら歩きました。3万歩。22キロ。

あと1時間で日没という時に、高野山を開いた弘法大師空海が56億7千年後まで

即身成仏として入定されたと伝わる奥之院御廟を歩きました。

参道には名だたる戦国武将や皇族などの供養塔や墓が約20万基並んでいます。

日が暮れる前の黄昏時の奥之院は、金色の光が杉木立から筋のように射しこみ、

水蒸気の微かな煙と溶け合い、まさに幽玄の世界。

ほぼ誰にも会わず貸切状態の中で、朽ち果てたお墓や供養塔の間を静かに歩きました。


ここで感じていたのは「一人じゃない」ということでした。

人は生まれてきた時は一人。

一人で生まれ、一人で死んでいく。


そんな言説をこれまで何度も目にしてきました。


胎内期からの人間の発達という視点で見ると、「一人」で生まれるということは

なりたちません。

母親の胎内で私たちはどの瞬間も「一人」でいたことがないのです。

お腹の中は、暖かく、優しく、柔らかで、宇宙のような満たされた空間の中で

常に羊膜に包まれている胎児は、母親と気持ちや栄養を含んだエネルギーの交換を行います。

生まれてくる時は、赤ちゃん自身が「その時」を母親に知らせます。

そして生まれてきてからも、なお、「一人」でいることはできません。

物理的身体的には独立した「私」は、社会的環境的には「誰か(養育者)と一緒」でないと生きることはできません。

誰か(養育者)と一緒にいることで、私たちは「一人でいられる力」を身につけていきます。


怖い思いや寂しい思いをした時に、安心や安全感を与えてくれる誰かと一緒にいることで、

少しづつその安全をもたらしてくれる養育者に対する安定したイメージが獲得されていきます。

そうして、この世界は安全であるという「基本的信頼感」が得られると、養育者が目の前にいなくても

内側のイメージで、世界を広げていくようになると言われています。


誰かといる安心感は身体的接触によりもたらされますが、内的なモデルが出来上がると

必ずしも身体的接触は必要ではないとも考えられています。


弘法大師空海は「同行二人」という言葉を用いました。

お遍路をしている時には、必ず「二人でいる」。

いつもそばに空海がいる、という意味だと言います。


心の中の安全なイメージ、それが空海であるのか、人生で出会った尊敬する師なのか、

養育者なのか、書物で出会ったメンターなのか、あるいは自分自身の健やかな側面なのか。


ひとりと二人。

ひとりでいても二人。


夜の帷が落ちてくる墓所を歩くときの怖さが、「同行二人」を思うと ほっとした安らかな気持ちになれたことがとても印象的でした。


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