今日は藍野大学へ。「表現としての身体研究会」主催の講演会に参加しました。
大学で理学療法を教える方であり、哲学者でもある 玉地 雅浩 (Masahiro Tamachi)先生の勉強会に参加させていただき、「臨床哲学」と心身へ働きかけるアプローチの親和性にますます惹かれています。
講師の伊藤悠子先生は、現象学の村上靖彦先生のご著書『母親の孤独から回復する 虐待のグループワーク実践に学ぶ』で虐待を行うお母さんへ、五感を通じたソマティックアプローチを行っておられる看護師でメディエーターとして紹介されていて、ずっとお話を伺いたいと願っていた方。
ご講義は、どの一秒も聞き逃せない実践者としての素晴らしい内容で、ひたすら考え、感じノートを取り続けました♪
伊藤先生は、固定したグループで半年間ほぼ毎週安心して参加できる場を構築し、虐待に追い込まれた親たちへケアを主体とした「MY TREE」というペアレンツプログラムを提供されています。
虐待や症状を、「個人」「家族」の問題にしない。そこには時代や文化、社会などの環境要因が大きく関与しています。
虐待は、公衆衛生の課題である、という立場から、誰もケアされない「介入」から、一人一人の悲哀や苦しみや体験を受け止め、つながりの場の中で回復の力を育む関わりを大切にされています。
潜在意識の中にしまいこまれ、なかったことにされていた悲しみや喪失に光りを丁寧に当て直すような関わりの中で、グループダイナミクスともいうべき、「そのとき」「その場」「このメンバー」の中で放たれるほんの小さな「語られることを待っていた何か」をすくい取る場の力。
哺乳類であるわたしたちが、どれだけの傷つき体験を持っていようとも、人は人の中で回復する力があると、言葉以前の深い階層まで降り立ち、内側から発動する一瞬の変化を「つなぎなおし」へと導く援助者の信念。
身体から生まれる情動への繊細なセンサー。身体のかすかな揺らぎから「希望」のスペースを広げる力。
五感への気づきの力。
これらは、わたし自身がタッチケア というツールを用いて大切にしていることと重なっています。
子育ては長丁場です。
お腹に子を宿し、独り立ちまで約20年、朝昼晩、休みなしです。お母さん業が週に3日9時から5時までなら、もしかしたらわたしも良いお母さんの顔だけを見せることができたのかもしれません。
誠実に丁寧に向き合い、子どもを育み、幸せな子でいてほしい、と願っていても、疲れや自分自身の満たされなかった小さなこどものころの記憶や感情や悔しさ、悲しさから、「子育ては向いていない」「わたしなんかがお母さんでかわいそう」「わたしには子を愛せない」と追い詰められることもあります。わたしも、何度も何度も経験し、打ちのめされてきています。タッチケアがあるから、ここまで、生き延びれた、そんな想いもあります。
「虐待へ懲罰を」という風潮になりつつある非寛容さから、「虐待はケアの欠如」という見方が広まることで、大人も子どもも、日本という社会で感じる生き辛さから、安全な場へひとまず退避できることを願います。
それにしても「希望」の力、大きいなあ。
伊藤先生、玉地先生、お世話になりましたみなさま、ありがとうございます😊
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