人は何万年も祈り続けてきました。悲しみや苦しみの中で、自然の猛威の前で、誰かのために、自分のために、世界のために。
祈りは不思議で複雑な精神活動の発露です。
いまだプロセスの途中ではあるけれど、「科学」が自然や神話をコントロールできた、と根拠なく信じているわたしたちは、「祈り」に代わるものとして「科学」を信仰をしているのかもしれません。
年齢を重ねると、世界は不条理で、努力が報われるとは限らず、できることが少なくなり、人は100パーセント死を迎え、死は善悪ではないことが、おぼろげに、でも、実体験を伴ってわかってくるものです。
宮古島や沖縄、あるいは熊野や東北の修験の地に惹かれて、祈りの地を訪れるのは、都会の生活の中では目を凝らさないと見えない「祈りの磁場」を、そこかしこに見ることができるからなのかもしれません。
宮古島平良市史によると、宮古島大神島池間島などの集落で、認められている神事のための祈りの場「御嶽」や「拝所」はおよそ900あるそうです。
ここでは、「科学」信仰が猛威を奮う前に連綿と受け継がれてきた何百という儀式が執り行われ、神役や神かがりやツカサ、神女たちが禊を行い、何日も食を絶ってこもり、村の安全と平和を祈りました。
主に女性が神様との対話を行うのです。
神さまに選ばれる女性は、大正くらいまでは、終身!
つまり、一度えらばれると、死ぬまで神事が最優先になり、生涯島を出ることが許されません。
今ではそんな過酷なお役目を担う若い人はほとんどいなくなり、後継者不足から島の神事も滞りがちになっているそうです。
今回も、少ない滞在日程の中、響き合う御嶽や湧水が出るガーと呼ばれるかつての人々の社交場や、城(ぐすく)のあとを訪れました。
訪れる人が少ない御嶽は、草に覆われ、道なき道を藪漕ぎするようなところもありました。
もちろん全て回ることはできず、3度の来島で訪れることができたのはガーや墓所なども含めると40くらい。
また土地の人間以外が立ち入ると災いがあると伝えられる場所は、敷地内に入らず、遠くから拝礼させていただき、お参りが許された御嶽では静かに手を合わせました。
神社もお寺もどこもそうですが、「御嶽」も放つエネルギーが個性的で異なるように感じます。
厳しく身を正す御嶽もあれば、柔らかな許しのエネルギーを感じる土地もあれば、禍々しさを感じる場もあり、清々しく透き通る場所もあります。
今回最後に訪れた御嶽は、結界が張り巡らされ、門番のように取り囲むガジュマルとオオコウモリのいる御嶽。
許可を得て結界の中に入ると空気の密度が結界の外と全く異なり、湿度も風も匂いも変わります。女性だけに参拝を許されたこの場所は、笑い声が聞こえてくるような、ほっとする祈りの地でした。
遍く光が照らしていますように。
闇と光が溶け合いますように。
何度もお招きくださった、宮古島の土地の神様、ありがとうございました。
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