毎年8月6日の朝は静かに祈る時間でした。
どうか静かに眠ってください、あやまちは繰り返しませんから…。
今日は友人の呼びかけで朝8時からオンラインで集まり、世界各地のつながりのある方とともに祈りました。
3分間の黙祷の時間はあっという間のようにも、長い時間にも感じました。
物心ついた時から祈り続けてきましたが、果たして「祈り」は平和をもたらしているのだろうかと考えてきました。
オリンピックは平和の祭典です。
戦争の代わりに、スポーツで闘うことを選んだはず。
でもその期間でさえも、子どもたち、病院、学校、逃げる場所のないひとびとに容赦なく降り注ぐ爆弾のニュースに気持ちが痛み、苦しみを感じておられるかたも少なくないとおもいます。
成長するに従って、叶うことのない「祈り」に傷つき、自らは汗をかくことなく安全な場所から口当たりの良い言葉を用いて自己満足に浸って現実逃避をしているように感じるようになりました。
でも、祈ることすらもできなくなったとき、わたしたちの世界は終わっているでしょう。
祈りは、現実逃避ではない前向きな力も含まれているからです。
大人になり、一人一人はたとえ小さくても、わたしたちができることを必死に考えています。
必死に考えもがいている姿勢そのものが祈りの力になることを体験してくると、祈るだけでも十分に意味があるといまでは信じられるようになりました。
祈りは、多くの人々にとって心のやすらぎをもたらす力を持っています。
祈りを通じて、自分自身や他者、さらには世界を包む大いなる存在に対して思いを馳せることで、内なる平和や希望を見つけることができるからです。
祈りにはストレスや不安を和らげ、心のバランスを整える効果も報告されています。
人は祈る時、目を閉じて呼吸を鎮める一時的に日常の喧騒から離れます。
静けさと集中力を育むことができます。
祈りのときには、多くの方は心の中で言葉を使うことでしょう。
どんな言葉を用いていますか?
内側から自然に湧き起こる感謝かもしれませんし、痛切な願いかもしれません。心の奥底にぼんやりと塊のように存在している「なにか」にフォーカスをして、言葉として現実化しています。
祈りには自己反省や自己成長を促す言葉を通して自分自身や他者への思いやりやより豊かな人間関係や意識の向上をもたらすことができます。
また、祈りは希望や安らぎの源となることもあります。
困難な状況や苦しみに直面した時に、祈りという行為を通じて励ましや勇気を得ることができます。
自分自身や他者に対して新たな解決策や可能性を見出す手助けをすることもあります。
ただし、祈りが必ずしもすべての問題を解決するわけではありません。
だから、モヤモヤしたり、無力を感じることもあるのです。
逆説的ですが、モヤモヤや無力感は現実を変える力になりうるし、内なる平和や希望を見つけ、心の癒しを得ることは、多くの人々にとって重要な役割を果たしています。
これからも祈り続けます。
祈りの気持ちを力に変えて、諦めずにできることを考えたいです。
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