高野山医療フォーラムの報告です。
今回のフォーラムは東京、大阪、福岡に
続いて第4回目。
世界遺産にもなった高野山の
高野山大学で開かれました。
テーマは
「生と死が手を結ぶには~
現代医療とスピリチュアリティ」です。
前日には数息観や瞑想のワークショップが
開かれ、朝は宿坊の読経に参加してこの日を迎えた、
という方も多いようです。
わたしは日帰りでの1日の参加でしたが、
3日間すべて、と嬉しそうに話しておられる
医師や看護師さんもおられました。
このフォーラムも
7月のホリ協シンポに続き、
医療の現場にたつ第一線の方が
スピリチュアルやスピリチュアルケアに
ついて考える画期的な内容です。
わたしも時々、
現役の医師のかたがたと
「スピリット」や「スピリチュアル」を
日本語にしたらなんという言葉が
適当か、と話あうことがあります。
鈴木大拙氏は「Spiritual」を
「霊性」と訳しましたが、
「霊性」「気」「霊魂」「魂」「こころ」
人によってばらばらで、
結局日本語に置き換えるのはとても難しいね、と
いう落ちになってしまうのです。
ですから、このフォーラムで
医師や作家や宗教学者や看護師のトップのかたがたが
どのようにスピリチュアルを捉えておられるのか、
とても興味がありました。
まずトップバッターの養老孟司さん。
東京大学名誉教授で
ベストセラーにもなった「バカの壁」の著者。
長年にわたって解剖を専門とされてきた方です。
「養老孟司の考えるスピリチュアリテイ」は
とても理路整然と、
くしゃくしゃに折りたたまれた紙が
きれいに広げられていくのを見るような
巧みなたとえと、論理の展開で
息つく暇もないほどの知的興奮を覚えました。
・生とは何か、死とはなにかというのは
結局は意識の問題である
・客観的なモノとこころを分ける境界線が
あるというのは明らかに俗説
とし、
仏教の般若身経の「五蘊」を
わたしたちに分かりやすく
解き明かしてくださいました。
最近、仏教とサイエンスを結びつける
著作がいくつか出版されています。
わたしもこの何ヶ月かで何冊か読みましたが
共通しているのは
仏教を開いた釈迦は
優れた脳科学者であり生理学を知り抜いていた、
仏教の様々な修行は
非常に古い、しかしとても論理的な脳科学に
ほかならない、という視点です。
「五蘊皆空」の「五蘊」は
コンピューターの概念が含まれている、と
いうのです。
「空」はゼロと1を意味し
コンピュータと同じ原理がこの中に働き、
「なにもないものがある」状態なのです。
そして「五蘊」である「色・受・想・行・識」では
「色」がモノにあたります。
「受」は「色」を感じる感覚。
モノの定義は必ず自分の中にあり、
絶対に同じにならないのが感覚の世界。
ひとりひとりの人間はみんな違う。
それが分からない人はスピリチュアルケアなど
できるわけがない。
後は大変長くなりますので割愛しますが、
同じもの
変わらないもの
などどこにもないということ。
人はずっと変わり続ける。
みんな違う。
この当たり前のことを
感覚の世界を研ぎ澄ませて
しっかり理解すること。
そうであれば、
マニュアル化されたスピリチュアルケアなど
本来はありえないのだ、
ということを言いたかったのではないかと
感じました。
講演会の最後に
養老先生はフランクルの言葉を引用されました。
フォーラムの前夜、偶然にも(いや必然?)
フランクルをわたしも
読み返していました。
大学時代、フランクルの研究をされている
山田先生のゼミに属していて、
フランクルの原著を訳す授業を受けていたのです。
そして、引用された言葉も
前夜わたしが付箋をはった言葉。
医師でありユダヤ人であるフランクルは、
第二次世界大戦時、
ナチスの収容所で3年間を過ごし
奇跡的に生還して有名な『夜と霧』を書きます。
彼は
「他人が人生の意味を発見するのを手伝うのが
私の天職だ」と述べていますが、
「生きる意味なんてない」
「なんのために生きるのか」
と人生の意味を求める問いに対して
このように答えているのです。
「『わたしは人生にまだなにを期待できるか』と
問うことはありません。
『人生はわたしに何を期待しているか』
と問うだけです。
「生きる意味があるか」と問うのは
はじめから間違っているのです。
人生こそが問いを出し、
わたしたちに問いを提起しているのです。
わたしたちは問われている存在なのです。」
ひとりひとりの違いを認め、
分かってもらうことを当たり前に思わず、
人生に責任を持って答えなければならないとは
一見、厳しく感じるかもしれませんが、
かけがえのない、
誰にも代わりのできない
ただ一人の個性的な「わたし」が
本気で生きることの大切さを
教えてくれるようです。
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