奈良は秋がよく似合います。
満開の金木犀の生垣が、世界は芳しい香りと色彩で満ちていたことを思い出させてくれます。
20代の私は失意のどん底にいました。
体調を崩し、仕事を失い、経済的にも困窮し、痛む体を抱えて、希望を持てず、未来を信じられなくなっていました。
今ならその時の私にも、見守ってくれている家族や友がいたことに気づいていますが、当時は「ひとりぼっち」「誰も助けてくれない」「何もできない無力な自分」の幻想の中で苦しんでいました。
特別な宗教に属したことはありませんが、歴史が好きだったことを思い出し法隆寺に行こうと思い立ったのです。
体力がなく、法隆寺に辿り着くだけでふらふらでした。
法隆寺の隣に、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)ゆかりのお寺があると聞き、足を引きずり参拝に訪れました。
池の中に立つ本堂の奥に半跏思惟像と呼ばれる美しい観音様が待っていてくださいました。
右足を組み、右手を頬にあて、まるで私たちの話に耳を傾けているような、穏やかな息遣いが聞こえてきそうな、あるいは小首をかしげて深い思索に耽っておられるような、柔らかなお姿に雷に打たれたような衝撃が走りました。
慈愛のまなざしに動けなくなり、息が止まるように感じ、なぜか涙がポロポロと流れました。
畳に座り、長い長い時間観音像と、見つめ合い、私の内側に、気づかれることを待っていた思いとともに対話をしました。
観音様は1000年以上、いくたびもの戦乱をこえ、宝冠も胸飾りも失い、それでもなお柔らかな微笑みをたたえたお顔で、人々の祈りを聞き続けてこられました。言葉にならない、力強いエネルギーに触れたような気がしました。
初めて訪れてから30年の間、何度も訪れました。
一人で、こどもを連れて、夫婦で。
being とは何ですか、私にできることは何ですか、
必死の問いかけに対して、「大丈夫、わかっているよ。一人じゃないよ」と慈しみと勇気の混じり合ったまなざしをいただき、励まされてきました。
今日は奇跡のように誰もいない本堂で、堂守のかたとお話しする機会も得ました。
本尊様はこの時代には珍しい楠の寄木で、ちょうどお顔も半分づつ組み合わされていること
頭頂部の2つの塊は、おそらく宝冠のアタッチメントであること
当時の女性の髪型をしていらして後ろに伸びた髪と、長く伸びた髪をわらび様に編んで肩に垂れていること
元は黄金であったが、江戸時代の狭いお堂での蝋燭の油煙で黒いおからだになられたこと
観音像は手が長く、半跏の姿勢も人間には無理であること
そして、ほとんど誰も見ることができないが、背中は水泳選手のように鍛え上げられていること(貴重なお写真も見せていただきました)
あの日から30年後の今日は格別な思いで対面しました。
かつて一緒に過酷な旅をした仲間に再会するような懐かしさで胸が痛くなるほどでした。
ひとりではありませんでした。
一緒にいてくださって、ありがとうございます。
感謝を伝えることができました。
あの時のわたしにも、伝えられたらいいな。
中宮寺を後にし、年に2回、2週間ほど開扉される夢殿の秘仏救世観音像と、一年のうちたった3日だけ一般公開される上御堂の釈迦如来を目指して法隆寺へ。
夢殿と呼ばれるようになったのは平安時代のことらしく、太子が法隆寺に参籠して瞑想にふけったときに、黄金でできた人が現れる夢を見たという言い伝えに基づいています。
夢殿は太子を供養する場であると同時に、太子が見た夢の場でもあり、今は、人々を救済する黄金の救世観音像が鎮まります。
太子の面影を残していると伝えられているふくよかなお顔は優しく、目にたたえられた笑みはユーモアさえ感じられ、同じく法隆寺に伝わる百済観音像の薄い体躯の悲しげな表情と対比的でした。
上御堂の建物は鎌倉時代に再建され、平安時代の国宝の釈迦三尊像を室町時代の四天王像が守ります。
人気も少ない時間帯だったので、ゆっくりと瞑想をしていると御堂の脇に何気なく置かれている、光背のようなものと彩色を施した厨子に気がつきました。
近くにいらした僧に尋ねると、こともなげに「源頼朝の太鼓ですわ。ほんであの箱は、フェノロサが明治時代に開けた厨子で、中に入ってたのが夢殿の救世観音像ですわ」と。
え、え!あまりにもさりげないので誰も気づいていませんけど。
と驚きの体験もさせていただきました。
もし、来年上御堂に行かれる方は、ぜひ、三尊像の両脇に、何気なく置いてある太鼓とお厨子をご覧になってくださいね!
夕方、鐘の音に送り出されて家路へ。
やっぱり、つぶやきました。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」子規
(中宮寺ホームページ から観音像のお写真をお借りしました)
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